2006.12.15 Friday
日本フィランソロピー協会シンポジウム
12月11日に社団法人日本フィランソロピー協会の小林聖美様から頂いたコメントが切っ掛となり、僕は代表の岡田ユキと共に同協会が主催するシンポジウムに参加させていただきました。
同協会は企業の社会貢献を推進している団体ということで、月に1度、定例セミナーと題した勉強会を行っているそうです。
今回のシンポジウムは第212回目の定例セミナーとなり、今の季節に因んで【クリスマス特別セミナー】と題されていました。
クリスマスって響きは、どんな場においても心を和ませるものですよね。
会場は大手町野村ビルの17階。
協力企業である株式会社パソナのパソナ講堂で行われたんですが、大きな窓ガラスから見える大都会の夜空には、
シャンッ♪シャンッ♪シャンッ♪
っという、トナカイの鈴の音が聞こえて来るような気がしました。
子どもは社会の宝物であり、クリスマスという日は、そんな子ども達にとっての宝物です。
夢とか希望とか・・・、そんな素敵な言葉がいっぱい詰まった宝物なんですよ。
この大切な宝物を、いつまでも大都会の夜空に描き続けていたい。
きっと今回のシンポジウムには、そんな願いが込められているんじゃないでしょうかね。
僕の言葉で押し付けがましく書いてしまいましたが、そんな願いまで感じてしまったのは、シンポジウムのテーマに理由があるんです。
母親に虐待を受けた少女・・・、
孤独な初老の男・・・、
天使の羽・・・、
背中に悔いを背負った男・・・、
見知らぬ2人の旅は、日本人が本来もっている心の優しさの旅。
社会はそれを誘拐と呼んだ・・・。
今回のテーマは”虐待”ということなんですよ。
奥田瑛二監督作品、映画『長い散歩』上映&シンポジウムというのが、クリスマス特別セミナーのテーマだとお聞きして伺ったんです。
セミナーでは先ず映画が上映され、その後、約1時間のシンポジウムという流れでした。
ただ、岡田と僕が会場に到着した時刻は映画の上映が終わる頃。
時間的な問題もあったんですが、実は映画を観ようという気が起きなかったというのも事実なんです。
僕は普段、DVDのレンタルショップにも行くんですが、虐待をテーマにしたDVDを自ら手に取ることはありません。
棚にびっしりと並んでいる中から、何故かその手のDVDを目敏く見つけてしまうんですが、手には取らないですねぇ。
特に僕の場合、DVをテーマにした映画は全く観る気が起きません。
テレビなどで何気なく虐待のシーンを目にすると、みんな同じに観えるんですよ。
恐らくどんな作品でも、そのシーンだけは全部同じに観えると思います。
優れた映画には奥行きのようなものを感じたりしますが、虐待やDVのシーンだけはそこに何の意味も持たない、薄っぺらな映像に観えてしまうんですよ。
僕のような被虐者にとって、そんなシーンは観るまでもない現実なんです。マイナスは生んでも、プラスは決して生まない映像なんですよね。
その辺りの心情について、お誘いいただいた小林様へは、岡田の口からご説明をさせていただきましたが、ご理解いただければ幸いです。
そんなこんなで、映画の上映が終わる頃に遅れて会場入りした訳ですが、シンポジウムには奥田瑛二監督もパネリストとしていらっしゃっていました。
その他にも壇上には、NPO東京養育家庭の会理事長の青葉紘宇さん、NPOカリヨン子どもセンター理事であり弁護士でもある一場順子さん、フォシリテーターとして、株式会社キネテック宣伝部長の塚田誠一さんがいらっしゃっていました。
塚田さんの挨拶からシンポジウムがスタートしたんですが、日々虐待と向き合っている現場の方々が、この映画をどう観るのか。皆さんと具体的なお話しが出来ればという主旨のご挨拶でした。
実際のところ、時間的な都合もあり、参加された会場の方々がご意見をされることはなかったんですが、虐待についてはとかく間違った認識が横行している昨今、塚田さんがおっしゃる主旨はよく判ります。
良い映画を撮ったから観てくれ、ただ感動作品だから観てくれという姿勢ではないんですね。
こういった姿勢は、とても大切なことだと思います。
塚田さんの挨拶の後、マイクは奥田瑛二監督を含めパネリストの方々へと移されました。
カリヨン子どもセンター理事の一場さんは、
『この映画の中に出てくる少年が、カリヨンに逃げ込んでくる子達の年齢と同じで思わず涙が出た。いまの世の中の生き難さを感じ、とても共感を抱いた。』
っとおっしゃっており、実際にご自身が目の当たりにしている子ども達とダブらせてお話しをされていました。
一場さんのお話で印象深かったのが、
『日本の国家や警察は、必ず逆のことをする。この映画でも、少女に手を差しのべた老人が誘拐犯として追い詰められていく。法を犯せば裁かれるのはやむを得ない事だが、本当は虐待をした母親の対処が先なんですよ。』
そう、声を大にしておっしゃっていましたね。
東京養育家庭の会理事長の青葉さんは、以前、児童相談所にご勤務されていたということで、当時の職場にいた目線からこの映画を観たということです。
そんな青葉さんのお話は、
『日本の親子関係は、まだまだ荒んでない。1〜2年のスパンで親子を見れば、好ましくない関係もあり得るが、10〜15年という長いスパンで見たとき、親と子の悪しき関係は消え去り、成立していく。』
とおっしゃっており、少年院を出た子どもが10数年後には親子関係も修復され、とても良い生き方をしている姿を実際に見ていらっっしゃるとのこと。
『人間、まだまだ捨てたもんじゃないですよ。』
とてもプラスを感じる部分でお話しをされていたのが印象的でした。
さて、ここからは今回の『長い散歩』が第3作目の作品となる、奥田瑛二監督のお話です。
先ずは、映画という媒体についてのお話しがあったんですが、
『映画というものは、人の頭と心に液体のように浸透するもの。だから、良い映画を撮らなければいけないし、良い映画を撮らなければ映画監督と名乗ってはいけないと思ってるんです。』
っと、この映画にかける意気込みを感じるお言葉がありました。
先ずこの映画を撮るにあたっては、
”家族って何だ?”ということを、延々と考えたそうです。映画を撮ってる間も、撮り終わった今も、ずっとそのことを考え続けてると・・・。
そして、奥田監督が現時点で出した結論は、
”家族とは・・・、夫婦だっ!”
そう思ったそうです。
夫婦のかたちが家族のかたちであり、夫婦のかたちは子ども達にも伝わっている。
それが奥田監督が出した結論だということです。
いま大きく頷いた方、または思わず卑屈になってしまった方・・・、色んな方がいると思いますが、要するに僕はそれが”連鎖”なんだろうなと思いますよ。
だから奥田監督の結論は、すごく良くわかります。
因みに僕は卑屈になってませんからね。
”家族とは・・・、夫婦。”
今までも、この先も、僕はちゃんと向き合っていくつもりでいます。
虐待という重たいテーマに臨んだ奥田監督ですが、撮影に入る前、そのテーマについて徹底的に調べたそうです。色んなところへ出向き、色んな方からお話しを聞き、この映画へ寄せられる全ての質問に対して、ある意味完璧な理論武装が出来るくらいじゃないと、こういった映画は撮ってはいけないと思ったそうです。
ここにも監督の意気込みが感じられますよね。
そして先ほど書いた”連鎖”なんですが、この言葉は虐待について徹底的に調べたという奥田監督の口からも飛び出しました。
『虐待が100%連鎖するなら、映画を撮ったところで絶望を与えるだけ。ただ調べていくうちに、その連鎖は100%ではない事を感じた。だから、僕の映画で何かを訴える事に意味があるんじゃないかと考えた。』
そう言ってました。僕はさっきの”家族とは・・・”というお話より、更に大きく頷いていました。
この辺りから奥田監督へ向ける僕の気持・・・、いやっ、虐待をテーマにした『長い散歩』という映画へ向ける気持に変化が生じてきてたんです。
奥田監督は更にお話しを続けました。
これは僕の考え方ですが・・・、っと前置きをした上で、
『虐待を背景にもつ親子が引き離され、子どもが保護される。そして、一定の期間を置いて子どもは親元へ返される。そんな話しをよく聞くが、僕は子どもの心情や立場だけを考えれば”一生涯”親に会わないほうが良いと思ったんです。更には”一生涯”会わない事を断言しないと、その子の心の修復は無理なんじゃないかと感じてるんです。』
これはすごく勇気のいる発言だと思いますよ。
俳優であり、映画監督であり・・・、そんな公の場を職場とされている奥田監督の発言は、いまDVの父親と、一切の交流を断っている僕の胸には強烈に響きました。
『この世に産まれてくるとき、人は皆、無垢である。なのに、いつの頃からか人は汚れていくんです。』
『今の世の中は”毒”ばかり、だから決して”毒”を描いちゃいけない。』
そんな監督の思いを乗せてクランクインを迎えたこの映画、
問題の虐待シーンの撮影日が、間もなくやってきたそうです。
虐待を徹底的に調べた奥田監督にとっては、何より気を遣うシーン。
娘役の杉浦花菜ちゃんが、母親役の高岡早紀さんに首を絞められるシーンを、いかにして壮絶に表現するか・・・。
監督自身にもアドレナリンが分泌され、その雰囲気を感じ取ったスタッフのテンションも上がっていたらしいんです。
撮影は仕事ですから、スタッフのテンションが上がってても何ら問題はない訳ですよ。
だた奥田監督の心中には、
『何かが違う・・・。』
っという気持が付き纏っていたということ。
その何かに監督自身が気づいたのは撮影前夜。
虐待シーンに意気込みをみせていたスタッフを集め、朝礼で言ったそうなんです。
『皆さん、すいませんでした。監督の僕が間違いを犯すところでした。今までお話しをしていた虐待シーンへの心構えを訂正をさせて下さい。このシーン・・・、僕は優しい気持ちで撮りたいと思います。』
『これは映画であり、全ては役者の演技です。でもそれを演じる娘役の花菜ちゃんは、実際にまだ5歳の少女なんですよ。だから僕は、この虐待シーンを優しい気持ちで撮りたいと思います。ネガティブな気持で撮れば、映像もネガティブになり、邪悪な映像になる。そして、その映像を観る人たちにも邪悪な気持を抱かせてしまう。』
スタッフにそう伝えたそうですよ。後ろの方で聞いていた、初老の男、安田松太郎役の緒形拳さんは、奥田監督の話に大きく頷いていたそうです。
虐待の問題に限らず、最近ではいじめによる自殺が相次ぐ世の中で、それを取巻く大人の話し合いは、子ども達の遥か頭上で行われている気がします。
口先だけで問題を議論する大人たちは、いつしか話しの本筋までも見失い、いじめをする子ども達をクラスから排除するなどという、とんでもない結論を出そうとする。
”優しい気持で撮りたい。”
子ども達の遥か頭上で話されていた虐待は、奥田監督のこの言葉によって、実際の子ども達の目線に降りてきたんですよ。僕はそう感じましたねぇ。
『僕は主人公の未来に悲観はしていません。』
シンポジウムを締めくくる時の奥田監督は、きっぱりとそうおっしゃっていました。
そして、最後にとても大切なメッセージを送って下さいましたよ。
『今の日本には第三者の存在が大切だと思います。子ども達を取巻く周囲の大人が、逃げないことが大切であり、近所の子どもでも面倒くさがらないで接点を持って頂きたい。』
映画を観ることなくシンポジウムに参加した僕でしたが、帰り道に岡田に言いました。
『僕はこの映画、観ようと思います。』
映画『長い散歩』の虐待シーンが、万一、テレビや他の映画と同じに観えてしまったら、僕は奥田監督の言葉を思い浮かべながら観ようと思います。
日本フィランソロピー協会の小林様、シンポジウムにお誘いいただき本当に有難うございました。そして、今後ともよろしくお願い申し上げます。